vol.3 寺尾紗穂

ー小学4年生頃に、関東大震災で多くの朝鮮人が殺されたという歴史*3をお母様から聴いてすごく憤ったそうですが。
寺尾:憤るというか、なんでそんなおかしなことが起こるのか不思議だったんですよ。でも、今となっては9月1日のあの日にそんなことがあったなんてほとんど誰も知らないし、そんなおかしなことを知らないままでいいのかなって思ってたんですよね。

ーすごく正義感が強かったんですね。
寺尾:幼稚園の時から一緒の在日朝鮮人の子がいて、小学1年の時に名前のことでいじめられていたんです。その時、やっぱりおかしいと思って、先生に言いに行ったんですよ(笑)。でもその子は2年生の時に引っ越してしまったんですけど。
しばらくは連絡がなくて、大学に入ってからいきなり電話がかかってきて「今は名前は通称名に変えたんだけど、紗穂ちゃんの声が聴きたくなった」って連絡が来たんです。びっくりして、なんでかなって母に聞いたら、あんた小1の時にそういうことしてたんだよって。

ー嬉しかったんでしょうね。そういう寺尾さんの気持ちがちゃんと曲として形になっている気がしますね。
寺尾:社会的な問題と言えばアルバム『青い夜のさよなら』の『私は知らない』は原発の事を歌った曲ですが、これは3.11の災害が起きる前に作った曲だそうですが。そういう事に以前から関心があったんですか?
それは、2010年のある日、急に気になって。そういえば原発って働くと被曝するって聞いたことがあるけどあれって本当なのかな?と思ってネットで調べて、元労働者の方の被曝した手記を読んだんです。そしたら最後にその人がもう亡くなっていたんですよ。
これはまずいんじゃないかと思って、探して出会ったのが樋口健二さんの『闇に消される原発被曝者』(御茶の水書房)っていう本。それがすごい衝撃で、一人であわててライブのMCで「本当に、原発の労働現場は大変なことになってるんだよ」みたいなことを言ってたんです。
そしたらああいう事になって。どうしたってそれをきっかけで作ったと思われるんですけど、違うんですよね。その前に作った曲だからこそ、歌う意味があると思います。今も日本の各地で続いてる問題だから。

ー初めて興味をもった音楽は何ですか?
寺尾:ドリカムですね。コンサートに行ったりしました。中学、高校はミュージカルをやっていて、その作詞作曲を中学1年生からやってたんです。大学に入ってからは、もう音楽はいいかなと思ったんです一度は。
それで、いろんなサークルをかけもちしていました。でも、ジャズピアノをやったことがなかったので、ジャズ研にも顔を出していたんです。その中で出会ったみんなと一緒にバンドを始めて、大学3年生頃からデモ音源をレコード会社に送ったりしたのがThousands Birdies’Legsになっていったんです。

ーお父様*4もミュージシャンでしたので、その影響はありましたか?
寺尾:あまりないですね。物心ついたときはベースも人にあげて字幕の仕事をしていたので。たまに「コレ聴くといいよ」と、勧められたくらいです。父が参加していた、大貫妙子さんとか竹内まりやさんのアルバムとかは家にぽつぽつありました。

ー大貫妙子さんのトリビュートに2度参加*5されていますが、寺尾さんにとってどんなアーティストですか?
寺尾:大貫さんの『カミングスーン』のレコードと『グレイスカイズ』の’95年に出たCDが家にあって、特に『カミングスーン』は小さい頃からすごく好きです。私がCDを出した時に大貫さんがコメントをくださいました。楽曲への美意識に共感と敬意を覚えます。

ーいままでは、アナログなサウンドがメインでしたが、『青い夜のさよなら』でがらっと変わって、デジタルだったり、ラップだったり、いろんな音の要素が入っています。この時は何か変化がありました?
寺尾:きっかけは、私が引っ越した部屋の前の住人がDJだったことです。引っ越した先に前の人の郵便物がずっと届いてて、ある日、音楽会社から送られてきたんです。この人ミュージシャンかなと思い、フェイスブックで調べてメッセージを送ったら、まだ近くに住んでいたんですよ。
話を聞くとDJをやってるそうなんで「よかったら音源を交換しましょう」ってなって。そうしたら私の曲を気に入ってアレンジしてもらったらそれがすごい良かったんです。
他の曲をアレンジしてもらった方達も電子的な音楽を作る人達で。気づいたらそういうネットワークができつつあったんです。それで、その人脈をたどって依頼してあのサウンドができたんです。

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